私がメンヘラをやめた理由②
夜10時、それでも6月の終わりはジトジトと暑い。
マンションの前には広い駐車場があり、周りを囲うようにちょうど座れる高さのブロックが置いてある。隣にある踏切のカンカンという音を背中に受けながら、私はラインを開きました。着せ替えはピンクのファンシーなユニコーン柄。
30人ほどの「友だち」の中から、
最初に選んだのは中学の同級生で適応障害を持った女の子。志賀野さん。
通話を選ぶと彼女はすぐに出てくれました。
どうしたのー?そんな穏やかで優しい声を聞いた気がする。
私は聞いて欲しい、と前置きをした後今の生活について話しました。
仕事を休職した事、福岡に来ている事、そこでメンヘラ仲間と好き放題の生活をしている事、毎日瀉血して血を浴びている事。それもシャワーのように。
志賀野さんは相槌を打ちながら聞いてくれます。
私は、一呼吸しっかり置いて言いました。
「私、ここにいていいのかな。」
メンヘラ達は毎日血まみれです。意識だって飛ばしている。自傷したいわけじゃない、ただみんな現実なんて嫌になって「放棄」している。真面目に生きるなんてもう嫌だ!狂ってやる!私達は自由だ!もう、うんざりなんだ!全部、なにもかも!
志賀野さんは私の話が落ち着いた後、一言だけ言いました。
「帰っておいで。」
帰っておいで。
心配だよ。あなたには私達がいるじゃない。いつでも、これまでもずっと、私達がいたじゃない。なんだって話してきたじゃない。病気だって障害だって、困ったねって言いながらお喋りのタネにしてきたじゃない。
あなたのいるべきところはそこじゃないよ。
なにも厳しい事は言われなかった。ただ一言、帰っておいでと言われただけ。
私がその時なにを考えたかは、詳しく覚えてないけれどすごく安心したのを覚えている。私に帰る場所がある?両親ともうまくいかず、彼氏もいない、仕事もできない私に帰る場所があるって?そうなんだ、私、帰る場所があるんだ。
でも信じられない。私はもう一人通話をする事にした。
彼は私が原宿を歩いている時に声をかけてきた美容師だった。「髪を切らせて欲しい」とのことだったが、その後好きだと言われ、それ以来私のショートカットは必ず彼にお願いしていた。(お返事は常に保留にしていた、、、)
志賀野さんに伝えた事をまた報告する。私、ここにいていいのかな。
「俺に電話してくるって事は、もうわかってるんでしょ?」
彼、テッペイくんはそう言った。やっぱり。
私はここにいるべきじゃないんだ、好き放題血まみれになって騒いでどんどんめちゃくちゃになって意識さえぶっ飛ばしてただただ異常な生活に染まっていく。
これが私のなりたかった理想の大人か?これが?
その後しばらく考えた。
座りやすい高さのブロックに腰掛けて、
みんなが騒いでいるマンションの一室を眺めながら。
私はここにいてはいけないんだと。
帰らなくちゃ。私はここで、この生活を続けていてはいけない。
身体中に染み付いた血を洗い流して飲んだ薬を吐いて、もう慣れ合うだけのお喋りをやめて、ここから出よう。
私、帰ろう。
そう思って立ち上がった時、ちょうどiPhoneで聞いていたユニゾンスクエアガーデンが
歌い終わったところだった。
島田
私がメンヘラをやめた理由①
去年の6月、私は体調不良(メンタルの悪化)で休職を決めました。
その頃の私は職場で過食嘔吐を繰り返し、ワンピースの下に16Gの針を3本刺して痛みで気つけしないとまともに働けない状態でありました。仕事も休みまくってました。
そんな状態でまともに働けるわけはなく、実質「いらねえ」と言われた訳です。
「また休職かあ」しょうがない、だって側から見て異常だもん。
私の過食嘔吐はフロア中に知れ渡ることとなり、上司の耳にも入りました。
「いらねえ」
梅雨の真っ只中、毎日ジトジト、光がさすこともなく厚い雲が太陽をプロテクトし一生ここから出られないかもしれない、そう思わせるバリアとなっている。
さて、これからどうしよう。幸い、その前の年にギリギリ入った底辺企業の「正社員」となっていたので、復職の心配をせずに済んだ。うん、でも休職だ。ジトジト。
そんな中、当時仲の良かったメンヘラから一通のラインが。
「女王、良かったら福岡来ない?」
当時、私はメンヘラ仲間から「女王」と呼ばれていました。
スカウトした女の子達から血液をもらってお風呂いっぱいに浴びていたからです。
処女300人の血を浴槽いっぱいに入れ浸かっていたという、エリザベート・バートリにちなんで女王と呼ばれていた訳です。その血液ガールズの一人から、「メンヘラが集まるからうちにおいでよ」とお誘いを受け、私は退職の挨拶をしたその足のまま福岡へと向かいました。
福岡空港に着くと、そこには4人のメンヘラが私を待っていました。
まず、メンヘラシェアハウスの主「チェリー」
愛らしい笑顔と高いテンションの「りな」
バンギャ丸出しでタトゥの入った「のん」
レズビアンで超美形の「ポチ」
チェリーとは普段から交流もあったし、以前会ったこともありました。
ポチは界隈では有名なカリスマメンヘラでファンも多く、フォローはしていました。
りなとのんとは完全初対面。でも、そこはメンヘラ。まるで会った事があるかのようなテンションで、一瞬で仲良くなりました。最初からタメ口、会った瞬間からハグ。
私たちはもう「友達」です。
メンヘラ界隈には一定数「カリスマ」のような存在が出てきます。条件は⑴顔がいい事⑵派手な自傷をしている事⑶破綻した生活を送っている事、これらが派手であればあるほど崇拝される存在になっていきます。ファン、というよりは「信者」が出来上がっていくのです。チェリーとポチはその「カリスマ」のうちに数えられる有名なメンヘラでした。
そこからの一週間、私たちは本当に破綻した生活を送りました。
好きなだけ欲しいものを買い、好きなだけ歌い、好きなだけ食べて吐き、酒を飲み、ホストを荒らし、血を浴びて、タバコを吸い、雑魚寝をしてまた好き放題して騒ぐのです。ここには書けないような事もしていました(犯罪ではないです)
生活は自由、出かけるのも寝るのも起きるのも各人好きなタイミングで。
共同でかかるお金は割り勘。そうやって、「なんの制限もない本当の自由」な一週間を過ごしました。
すごく楽しかった。
ストレスでメンタルを壊し、休職した絶望なんて吹き飛ばす、干渉も倫理もないこなさなければならないタスクも一切ない、お互い良ければ全てよし!のスペシャルな一週間でした。
ただ、そんな生活を続けるうちに私の中にポツポツと水滴のように染み出してくる「違和感」がありました。
「私、ここでこの生活を続けていていいのだろうか?」
ここではみんなが血まみれです。真っ赤になって騒いでいる。
普通じゃ考えられないほど私達は笑いながら、懸命に血まみれになっていく。
瀉血はリストカットとは違い、大きな傷は残らないし、大量の血液を噴射させます。
真っ赤なシャワーを浴びながら、私たちは順調に狂っていく。
でも、私はこう考えるようになっていました。
「私は、これでいいんだろうか。」
みんなが騒いでいる中、私はひとりマンションから出て前にある駐車場でコンコンと考え続けます。夜、誰もいない。そんな中、ずっとループする私の頭の中にはこの、このままでいいんだろうか、このままでいいんだろうか、私のなりたかった大人ってこういうものだっけ、これって、これって?そんな。
私は思いました。
もしかして、ここにいるべきじゃないのかもしれない。
そんな違和感がジクジクと沁みてきて、ついに滴ってくる。
笑って、ラリって、浴びて、食べて、寝る。
ここってもしかして最底辺?世の中にはいろんな世界があって、いろんなコミュニティがある。それは同意の上であれば成立し、人肉食べていても、糞尿垂れ流していても、それがそのコミュニティ内で同意されていればそれでいい。でも、私が属したかったコミュニティはここだったのか?
島田
苦手な先輩
私は今の会社に出向して3ヶ月。
ずっと設計をしていたとはいえ、その業務自体は幅広く、そもそもソフトを使わない職場もありました。っていうか、私社会人生活の半分以上メンタル壊してニートだし。
そんな私が今いる会社は、バリバリと特殊な設計ソフトを使います。
しかも、その中でもあまり使わない種類のコマンドを使います。
なんにもわからない。会社独自のルールもたくさんあり、毎日情報の海で溺れています。
OJTからの教育を終え、別の先輩からお仕事をもらうようになりました。
その先輩は大変有能で若くしてそれなりのポストにいる、頭の良い人です。
とても理性的、責任感があり、信頼も厚い。当然、仕事量も多い。
初めての部品、初めてのコマンド、会社独自のルール、加えて私の頭の悪さ。
私は常にアップアップで溺れながら浮き輪も放り投げてしまうようなパニック状態。
そんな私を教育し、仕事をさせなければならない先輩の心労は計り知れない、、、
前に教えたはずの事もすぐ忘れてしまう私に、チクリと言ってやりたくなる気持ちはとってもよくわかります。だってこいつ、何回教えても忘れるんだもん。俺にも仕事があるんだよ、お前につきっきりにいられるわけないだろう。いい加減にしろよ。これくらいできるだろう。
できないんです。
そもそも私に、その部品の知識はない。構成もわかっていない。部品名を聞いても、どんな形をしているのか、どんな役割があるのか、何のための図面を描いているのかもわからない。
私は自分の学習障害をカバーするために、写経レベルのメモを取っていました。
それは「記憶するためのメモ」ではなく、「認知するためのメモ」でした。
私は「文字で見れば理解できる」けれど、「聞いて理解する」事が出来ません。文字にしないとそもそも理解の前段階、「認知」さえ出来ないのです。
そんな異常なほどのメモを取る私に向かって先輩は言いました。
「島田さんは、メモを取ったって全然見ていないじゃないか。」
ハッとしました。ああ、ここに健常者と障害者の差が!
どうやら、健常者の「メモ」というものは「記憶するため」にするようだ。対して私のメモはどうか?「認知するため」のメモだ。要は、「何言ってるかを文字にして頭に入れる作業」、認識の相違。みんなは、記憶するためにメモを取るんだ。
私はすぐにそれを先輩に話しました。
1時間くらいお互いに話し合いをしたと思います。聞いてもわからない事、文字にして理解を助けている事、先輩にとってはわけのわからない話だったと思う。
それでも先輩は「わかった」と言って、やり方を変えてくれました。
私への指示はなるべく「書き込む事」
作業を指示した時点で、やる事の想像はできているのか?と「確認する事」
できるだけ作業を細かく区切り、「多くの情報を与えない事」
それでもやっぱり、言葉でコミュニケーションを取っている時点で認識の相違は出てきてしまいます。何度も書くけど、私は頭が悪い。先輩のいわんとしている事がわからない。
作業も完璧にはできない。
ここまでやっているのに、それでもまだこいつは覚えない。
先輩はとても疲れると思うし、作業量も増える。どうしたらいい。イライラする。
だから「前にも言った」「前にもやった」「いい加減覚えてください」、そう言わせてしまう。とても理性的であるはずの先輩に、そう言わせてしまう。
そういう時、私はもう「すみません」としか言えなくなる。
そしてそれもまた先輩をイライラさせてしまう。
それを感じ取って私の声もどんどん小さくなっていく。オドオドしてしまう。
悪循環。
要は私が先輩の要求レベルに応えればいい事なのに、現状私にはそれができない。
先輩からしたら低いハードル、私にとっては高いハードル。
そこで、私はメモをやめました。
とにかく先輩の話を聞く事、区切られた作業をできるだけ正確にこなす事。
あれだけこだわっていたメモを捨てて、とにかく食らいつく事にしました。
全て、「先輩の要求レベルに応えたい」からです。
先輩は私のためにいろいろと考えて動いてくれています。
たまにキツイかなという言葉ももらいます、でも先輩は私を育ててくれている。
それでもやっぱり怖い。本当は毎日しんどい。職場で泣き出してしまいたい時はたくさんある。でも、それをしたら先輩は今後私にアドバイスできなくなる。
だから私は少しでも仕事ができるように、あらゆる手を尽くして食らいついて絶対に仕事ができるようにならなければならないのです。
先輩は怖いけれど、悪い人じゃない。
どれだけムカついても声を荒げたりしない。覚えるべき事を、必死に覚えさせようとしてくれている。
先輩に信頼されたい。島田ならこの仕事をやってくれる、と思ってもらいたい。
だから私は明日も仕事に行く。
毎朝しんどい、行きたくないと思っても行く。
苦手だけれど、尊敬する先輩だからだ。
島田
友達を大事にするという事
ツイッターによく「しんどい」と書き込んでしまいます。
その時は本当にしんどいのですが、では実際生きて人と接している島田という人間の評価はいったいどういうものか?
「明るいね!」「よく笑うよね!」「お話ししていて楽しいよ!」
うそお?だっていつもネガティブじゃん。しんどいしか呟かないじゃん。
多少のリップサービスはある、もちろんわかる。あんたってネガティブでつまんないよね、なんて本人に向かって言わない。私も言わない。
私には仲の良い同級生が4人います。
その中でもよく連絡を取り、仕事が終わった後ウォーキングを兼ねてお喋りをする女性がいます。前の記事に書いた、大企業でバリバリと働いている彼女です。
彼女は健常者で、家庭も真っ当な暖かい家族に囲まれて育った健全な女性です。
美人で気が強く、男社会で戦っている、私の憧れです。
同業者なのでエンジニアあるあるなども話せる(楽しい)
そんな彼女が私によく言うのです。
「島田はツイッターではあんな事言ってるくせに、会う時はいつも明るい。話が面白い。頭もいい。出会って十数年、あなたをメンヘラだとも障害者だとも感じた事は一切ない。」
これを、会うたび繰り返し言ってくれる。
聡明な彼女の事、いらない人間関係はすぐに整理するような人です。笑
じゃあ、たぶん、この言葉は本当なのかも?もしかしたら、私は本当に明るい人間だったりするかも?そんな事を、言われるたびに思う。私、もしかしてちゃんとした人間に見えてる?
私には、人付き合いの中で決めたルールがあります。
それは、「健常者には絶対に、死にたい、つらい、と言わない」事。
最初から決めていたわけではありません。
若い頃、友達に甘えすぎていた時期がありました。とにかくつらい気持ちを吐き出したくて、誰かに知って欲しくて、ラインやツイッターで誰彼構わずにぶつけていた事があります。そうすると、当たり前、人は離れていく。
それで失った友達は一人ではない。
少し経ってからようやく、気づいた事。
「もし、自分が誰かから死にたいなんて言われたらどんな気持ちになる?」
「増えていく傷を見てどう思う?」
「自分が想像もできないような思いを抱えた人間に、どこまで寄り添える?」
やっちゃいけない事をしていたんだ。
誰もが受け入れられるわけじゃない。当たり前。それが普通で、そうあるべきだった。
自分を全部丸ごと投げつけるような事が正しいわけじゃない。
投げつけられた方はたまったものじゃないよね、だってそんなの受け入れられないよ。それは私だってそうじゃない。楽しく話したいのに、死にたいだなんて聞きたくない。
でも、じゃあ私のそんな気持ちは私の中だけで消化するしかないのか?
結論、そんな事はない。
ありがたい事に、そんな事はないのです。
私がしんどいと思った時、もう無理だと思った時、助けて欲しいと思った時、「まかせろ!」と言ってくれる友達がいます。泣きそう。ありがたいありがたい。
泣きながら電話をかけても、電話に出てくれる友達がいます。
元気がない、という呟きを見て「大丈夫か?」と連絡をくれる友達がいます。
彼ら、彼女らは私のことを大切に思ってくれている。
もちろん、上記の彼女も私の事をとても大切に思ってくれています。
要は、カタチの違いなんだと思います。
私のそういった気持ちに寄り添ってくれる人の愛情のカタチ、私といて楽しいと思ってくれる愛情のカタチ、その他たくさんの愛情のカタチがあって私を支えていてくれる。
すっごく嬉しい。
私、なんにもできないのに。こんな人間なのに。
フォロワーさん達だってそう。
私が元気がないよってツイートすると、質問箱で「元気出してね!」「かわいいよ!」ってメッセージをくれる。会った事もないのに。ありがとう!
きっと明日も仕事に行けば満身創痍で帰ってくる。
たぶん泣きながら帰ってくる。
ありがとう。
私にできる事はおっぱいの画像をあげる事だけです。笑
それでも、また、たくさんお話をしてね。
島田
追いつけない劣等感
前回の記事では、自己紹介として簡単に人生をおさらいしました。
それで伝わったかどうかわかりません。だから、この記事では内面を掘り下げたいと思います。お付き合いください。
私が、発達障害であるという話。
私は現在、障害者雇用を受けず一般企業に勤めています。
そうすると当たり前ですが、周りは「健常者」ばかり。いや、もしかしたらいるかもしれないけれどわからない。みんな、当たり前のように毎日出社し、与えられた仕事をなんなくこなしていく。体調が悪そうにも見えないし、愚痴も弱音も吐かない。
何も辛そうにしない。怒られている人も見ない。
「えっ、ここで怒られてるのってもしかして私だけ?」
出向開始から3ヶ月。3ヶ月なのだから仕事がこなせないのは、当たり前といえば当たり前かもしれない。うん、でも、キツイ。膨大な情報を与えられ、それを短時間のうちに処理していくのはとってもキツイ。正直もう限界かもしれない、と思う事もしばしば。
「わからない事があればすぐに聞く」、「仕事をとにかく進めて数をこなす」、わかってはいる。仕事が滞って、知識も定着せず時間だけが過ぎていく事に焦る。
とにかく、早く「仕事を任せてもらえる」ようにならなければならない。
でも、できない。
「わからない事があれば聞くように。」間違いをするよりは先輩達に聞いて進めるのが正解だ。じゃあ先輩に聞こう!先輩、これはどうしたらいいですか?
「前に教えたよ。」
、、、。
覚えてない。
どうしよう?前に教えてもらった?うん、確かに先輩は私に説明してくれたと思う。でも覚えてない。先輩が溜息顔になる。馬鹿な私にもわかる。きっとこう思っている。
「こいつは使えない。」
私はここで毎日、毎日後悔する。
なんで生まれてきてしまったんだろう。こんなに役に立たない人間はもう、人間じゃない。「お荷物」だ。簡単なはずの理屈が覚えられない。データ構成という基礎の基礎から覚えていないのだ。
私の仕事は設計エンジニアといって、いろんな部品をデータ上で3D化したり、図面を描いたりするお仕事。私が主に任せられる仕事は「図面」、ここでは比較的簡単だと言われる作業です。それでもたくさんのルールがあり、コマンドがあり、目に見えないデータ同士のリンクや、保存方法だけでも作業に合わせて3つ以上。
それに加えて部品の名前や構成、区分け、役割。
わからない。
覚えきれない。でもみんな当たり前のようにやっている。どうしよう。
ああ、もし、もし私が「障害者じゃなかったら?」
人並みの処理能力を持ち、人並みにコミュニケーションができ、身体が動けば?
機密情報のため、家に持ち帰っての学習はできません。
そして、出向社員の私に残業は許されていない。8時間でその日の仕事仕上げ、知識を定着させなければいけません。終わらなければ、その仕事は先輩が残業をして仕上げなければなりません。迷惑。お前、なんのためにいるの?
できない。
だから聞くけれど、前に教えたよと言われてしまえば言い返せない。
こういう時、「健常者」ならどうするのでしょうか?基礎をすぐ覚えられるのでしょうか?そして応用の時には、その基礎知識を抽斗から取り出し、活用できるのでしょうか?なんとかアウトプットして出した仕事も、全部が一発で正解なんて事はありません。ここが間違ってる。アウトプットは合ってるけどデータ上での構成が違う。
ああ、「私が障害者だから」
もし、私が障害者じゃなかったら?メンタルを患ってなかったら?
記憶が飛ぶ事もなく、失敗を前向きに受け取り挽回を目指す事が出来たのか?
こんなに低い賃金で働く事もなく、体調不良を悟られてはいけないというプレッシャーもなく、先輩からのチクリという一言も「うるせえな」で片付けられたのか?
同じ家庭で育ったはずの妹はCAだ。
中学の同級生は大企業の正社員だ。
私は、私だけが、障害者だ。
働き始めてから一層強くなった「健常者になりたい」という思い。
周りを見渡して思う。
「追いつけない」って。
島田
自己紹介
一つ前の記事では、「ブログを始めようと思ったきっかけ」を書きました。
今回は、自己紹介をしたいと思います。
もともとは「鍵を開けていろんな人と話したい」と思って作ったアカウントでしたが、今では70人以上のフォロワーさんがいろんなところからフォローをしにきてくれました。
フォロワーを辿ってきた、ツイートが回ってきた、なんの意図もなく、そんなフォロワーさん達は様々な年齢、性別、住んでいる場所、なんの共通点もない。
そして、そんな人達に向けて私、自己紹介をしていない。
ダメじゃん。
いや、元来インターネットとはそういうものです。本来なら性別も公表する必要はなく、たった一つ必要なのは識別のためのハンドルネームと「中身」です。時々漏れ出す本音のようなものを一つずつ拾って、「受け取る側が」その人を形成していく。それがインターネット。
でも、ここは一旦曝け出してみようじゃないか?
その距離感すっ飛ばして、私のパーソナルデータぶちかましてみる?
私は平成が始まってから生まれました、現在28歳のサラリーマンです。
167センチ、Gカップ、ショートカットの発達障害者(学習障害)で、馬鹿。
小さい頃から母親がカルト宗教にのめり込んでおり、当たり前のように境界性人格障害を発症し、現在治療中です。ほとんど寛解状態ではある、あるけれど、、、
その辺に触れた記事はこれです(※他の記事はオススメしません!)
小さい頃から憧れていたデザイナーになるために、現役で某美大へ進学。
4年間楽しかったものの、デザイナーという職の厳しさを知り卒業後は設計エンジニアへ転向。
しかし、病気のピークと働き盛りがかぶってしまい大事な時期にほとんど働けず、自傷やODを繰り返し、あげく24歳の時に会社の寮で首を吊って自殺未遂。
医療保護入院で閉鎖病棟の隔離病室に3日間ぶち込まれ、閉鎖病棟で1ヶ月弱を過ごす事に。
その1ヶ月の記録
それからは休職と転職を繰り返し、無茶苦茶だけれど楽しいキチガイ生活を送っておりました。キチガイ仲間もたくさんいた。オススメはしない。
しかし、そんな愉快なキチガイ生活も、突然終わる日がやってきます。
まず、7つ下の親友が亡くなりました。自殺でした。私の初めてのお通夜は親友のものでした。そこから3年間の間に仲の良かったフォロワーが3人亡くなり(もちろん自殺)、ついに決定打が。5人目の自殺者が出ました。彼女には大変な恩がある、その彼女がついに自殺を遂げました。
もう嫌だ。
みんな死んでいくじゃないか。
もっとお話ししたかったのに、あんなに一緒にいたのに。
一緒に生きようって約束したじゃないか、苦しくても生きていようって。
約束したじゃないかよ。
私はその日から、ぱったりとメンヘラをやめました。
メンヘラアカウントも捨て、それまで仲の良かったメンヘラ達とも連絡をやめました。もちろん、自傷やODもやめました。現在まで。
ここら辺のお話も後で書こうと思います。なかなかにクレイジーなお話ですので。
そうして私は段々と健常者の人達と遊ぶようになり、メンヘラをやめてから半年後の3月、元々の設計エンジニアとして復職を果たしました。
それが、今フォロワーさんの見ている私です。
ざっとこれまでの人生をおさらい。
現在の持病は学習障害と、治りかけの境界性人格障害。睡眠障害も少し。
情報として記事にしました。
私はとても馬鹿で取り柄のない、最底辺の人間です。
自分の感情さえ自信がなく、処理能力の劣る、いわゆる「お荷物」です。
でも、「お荷物」も考える。
「どうしたらお荷物じゃなくなるんだろう?」「どうしたら人に優しくなれるんだろう?」「どうしたらまともになれるんだろう?」「どうしたら人の役に立てるんだろう?」
私は、ずっと、「健常者」になりたかった。
島田
どうしてブログを始めようと思ったんだろう?
最近、「警察官クビになってからブログ」さんを知りました。
きっかけはツイッターでリツリートが回ってきたことです。
その日から今日まで、私は夢中でこのブログを読んでいます。
このブログで取り上げられたブラック企業についてのエピソードは書籍化もされ、多くの人が読むところとなり、大きな話題となったようです。私はまだその書籍を手に入れていないので、これから購入する予定です。
少しずつハルオサン(上記のブログ筆者さん)の記事を読むにつれて、私もブログをやってみたくなり、昨日の夜はてなブログのアプリをインストールしました。
そうしたら、あれ?私、どうやら過去にはてなで日記を書いていたようです。
それが昨日ツイートをした「厭世日記」でした。
私の「厭世日記」には、当時24歳で自殺未遂をして閉鎖病棟にぶち込まれてからの約1ヶ月間の生活が書かれています。そこで出会った患者仲間の事や、かけてもらった言葉が残されていました。私は今28歳ですので、4年前の事になります。
正直、すっかり忘れていました。
どんな人がいたか、どんな気持ちだったか、どんな環境だったか、何が起こったか、そこから何を学んだのかさえすっかり忘れてしまっていた。
優しい気持ちをもらった、いい経験だった、そこまでで終わってしまっていた。
そして、何よりは「書いて終わり」だったのです。
人に読んでもらう事なんて考えていなかった。
当時のツイッターアカウント(当時はメンヘラアカウントを持っていました)に投稿くらいはしたでしょう、数人から「本を書いてみたらいいんじゃないかな」と言われたことは覚えています。でも、私には無理〜と読んでもらうような努力はしませんでした。
この歳になるまで生活は二転三転ダンスを繰り返し、クルクルとキャラクターを変えながら生き延びてきました。倫理的にどうかなと思う事もしたし、倫理的にどうかなという人達とも付き合いがありましたし(メンヘラって危ない)、生活は破綻していました。たまたまお金があっただけで。今はもうない。
そんな生活に最近、変化がありました。
「復職」です。
私はなんとなくずっと身を置いていた設計エンジニアという仕事に復帰しました。
去年(一昨年?)いろいろあって正社員として入れた底辺企業のエンジニアとして、3月から復職したのです。そのきっかけは後々書いていこうと思います。
そこから勉強を経て今の会社に出向、やった事のない部品のやった事のない設計をして毎日ヒイコラ必死に働いているうちに思った事。今の自分から見た過去の自分。
最近、私の頭をいっぱいにしていた「健常者と障害者」というテーマ。
「仕事のためにする恋愛」、「追いつけないという劣等感」。
この記事の最初にあげた「警察官クビになってからブログ」を読んでいるうちに、それらを発信してみたくなりました。そして、過去に記事を書いていた自分からのバトンタッチのような、そんな気持ちがむくむく。
クサイ事を書きました。
私は美大出身で、もともと発信する事が大好きでした。
でもこれまではそんな体力もメンタルもなくてできなかった、それは、もしかしたら今ならできる?たくさん考えてきた事を、今ならもしかして受け取ってくれる人がいる?
私の事を知りたいと思ってくれる人がいる。
匿名で罵詈雑言を吐けるはずの「質問箱」にはいつも励ましや大好きだよなどのメッセージが届きます、もしかして、愛されている!あとおっぱいへの愛もたくさん届く。
まずはフォロワーに向けて、私の事を知ってもらえませんかというブログを書いてみようかと思います。
その中で知りたい、気になる、という事があれば教えて欲しいし、こちらからフォロワーに向けて発信したい、聞いてほしい事があれば書いていこうと思います。
もしどこかでその記事が気に入った時は、ちょっとだけ誰かにこのブログの存在を教えてもらいたいです、それは今の時点ではまだ傲慢の域かなと思うけど。
何から書こうかな。
まずは、自己紹介からしないと始まらないかもしれないな。
島田